つらい経験を「面白く」=岸田奈美・作家/806
子どものころから人生の試練に次々と見舞われた。それでも、文字を介した人とのコミュニケーションに夢中になれた。そして今、多くの人を文章で魅了する作家として、新たな道を歩み出す。
(聞き手=桑子かつ代・編集部)(問答有用)
「誰かに評価されなくてもいい。書くのは私を癒やす作業」
「父の死は家族で乗り越えた。母や弟にこの先、何かあったら、耐えられる自信がありません」
── コロナ禍で配布された一律10万円の特別定額給付金を賞金として、私設の文章コンテスト「キナリ杯」をオンライン上のメディアプラットフォーム「note」で開催しました。
岸田 「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、自分の身の回りの面白い話を私に書いて送ってほしいと思って開催しました。国会中継を見て10万円の使い方を考えていた時、私は今、作家として十分食べていけているので、賞金として10万円を何らかの恩返しの形にしたいと思いました。賛同して寄付してくれる人が増え、賞金総額は100万円になりました。
── 応募の状況や審査結果は?
岸田 4月30日~5月31日を募集期間に、4240作品が寄せられました。編集者やライター、漫画家など老若男女さまざまな人から応募がありました。審査員は私一人なので全部の応募作品を読み、締め切りの日に駆け込みで来た2000作品を読んだのは実質2日間。面白い作品がとても多く、当初考えていた15賞は39賞に、受賞人数も20人から53人に増やしました。お祭りの熱狂のような高揚感がありましたね。
キナリ杯は6月3日にnote上で結果発表。岸田さんが最も面白いと思った「超無限優勝(キナリ杯の王)」は、「パン子」さんの「自分でレーザー脱毛をして、目も当てられない恰好になった話。」だ。自分の股間をさらし、あられもない格好になりながら、レーザー脱毛器と格闘する女性の体験記が「浜に打ち上げられたハマチのように、ビクンビクンと跳ねている」(岸田さん)ような躍動感あふれる文章でつづられた。
行動制限を余儀なくされたコロナ禍の中で、読者参加型の笑いや楽しみの場を提供した岸田さん。受賞作品はnote上で無料で読め、キナリ杯をきっかけに自分の作品を公に初めて投稿した人も少なくない。ただ、岸田さんは「面白い文章」を書くことについて、「途方もなくしんどいこと」「すべては自分のためです」ともnoteに書いている。
── 岸田さん自身はnoteなどオンライン媒体を中心に、主に家族のことをエッセーとして軽妙に書いています。
岸田 母は車椅子で弟はダウン症ですが、とても明るい家族です。家族について書いているというよりも、いいなと思って書いている話がたまたま家族です。絶望と悲しみを耐えて乗り越えたチームのような。母と弟は神戸市で2人で暮らしていますが、弟の面倒を見てほしいと言われたことがありません。仕送りはしていませんが、年に3度私の給料をドーンと注ぎ込んで家族を旅行に連れて行きます。
チャットに夢中に
── いつごろから文章を書き始めたのですか。
岸田 小さなころから周囲の同年代の子どもとは話が合わず、なじめませんでした。早口で目の前の関心の対象がすぐに変わってしまうんです。
私が5歳の時、そんな私を見た父がある日突然、「友達はこの箱の中にいる」と言って、(米アップルのパソコン)マッキントッシュを買ってきました。ここで、不特定多数の人たちが参加するチャットに夢中になり、自分が楽しいと感じたことを思う存分に「話せた」んです。私が人気漫画のストーリーを妄想したりすると、「面白い」と言ってくれる人がいたりして、とてもうれしかったですね。
── お父さんが岸田さんのことをよく分かっていたんですね。
岸田 父は格好良くて面白い人でした。でも、私が反抗期だった中学2年生の時、心筋梗塞(こうそく)で亡くなりました。父との最後の会話がささいなけんかだったことをずっと後悔しています。父が死んだ後、今度は高校1年生の時に母が39歳で大動脈解離で倒れました。生きるか死ぬかの手術をするかどうかの決断を、当時高校1年の私が医師から迫られ、母は手術で一命は取りとめたものの、車椅子の生活になったのです。
── あまりにつらい運命です。
岸田 なぜ私の家ばかりこういうことが起こるのか。周りの友達とは危機感が違いましたね。母は病院へお見舞いに行く私の前では笑顔でしたが、病室からある日、母の号泣が聞こえてきて、私が手術を決断したことで母に生き地獄を味わわせていると自分を責めました。ただ、入院から1年後、病院からの外出許可をもらって三宮(神戸市)の繁華街に車椅子の母と出かけた時、将来に向けて動き出そうと思えたことがありました。
“2億%大丈夫”
── どんなことですか。
岸田 母は最初は楽しそうでしたが、当時は街中がバリアフリーの状態ではなかったため、駅から地上に出るのに30分もかかりました。母は段々暗くなり、すれ違う人たちに謝ってばかり。ようやく入れた喫茶店で母が「子どもの迷惑になりたくない」「ずっと死にたいと思っていた」と泣いて私に訴えたんです。私は母への責任を感じると同時に、死んでほしくないと思いました。
その時、喫茶店の窓越しに、ふと「サマージャンボ2億円」のポスターが私の目に飛び込んできました。身の回りにない大きな数字を見た途端、衝動的にスイッチが入って、口をついて出たのが「お母さん、死んでもいいけどちょっと待って。私が何とかする。“2億%”大丈夫だから」。母を死なせないために何をすればいいのか、高校生だった私にはさっぱり分かりませんでしたが、とにかく動き出そうと決意しました。
働いて経済力をつける、そしてマンションのリノベーション会社を経営していた父のような経営者になる──。目標が決まった。家族にも役に立つ福祉の分野で起業しようと考え、関西学院大学人間福祉学部社会起業学科を受験して合格。すぐさま大学1年でバリアフリーのコンサルティング事業を手掛ける男子学生の起業に参加する。
── 起業に参加したきっかけは?
岸田 大学では福祉や介助犬の歴史とか、昔の話から勉強するので、時間がもったいないと思う日々が続きました。転機は同じ大学の車椅子の男子学生との出会い。ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者・実業家ムハマド・ユヌスさんの講演が2010年に大学内であり、 講演後の質疑応答で男子学生がバリアフリーのコンサルティング事業の起業について意欲的に話すのを見て感動しました。
── どんな仕事をしたのですか。
岸田 朝は大学に行き、昼はその会社で飛び込み営業をして、夕方にはまた大学に戻って授業を受ける日々。11年には母が私の部下として会社に入社し、企業向けの研修担当の仕事を得ました。千葉県の新装パチンコ店に母と出向き、スタッフ100人に母が3時間研修をして、障害のある人への接客に自信が持てるようになったと高く評価してもらったこともあります。母は今、日本全国各地や海外で講演活動もして頑張っています。
ただ、営業の仕事をする中で、相手の顔を覚えられず、10秒前に名刺交換をした人にまた名刺を渡したりすることが頻繁にありました。最近、軽度の「相貌失認」(人の顔が認識できない病気)と診断されたのですが、 当時は営業は向いていないのかなと思い、広報の仕事をすることにしました。会社の好きなことを書いたら、A4用紙10枚のプレスリリースになったりして、“野生”の広報でしたね(笑)。
── 今年3月に作家として独立しました。
岸田 仕事をしながら、フェイスブックでちょっとした日記のようなものを書いていたら、知人が「面白い」と言ってくれ、昨年8月からはnoteでも書いてみることにしました。私のブラジャー試着や弟が万引きに間違えられた話などを書くと、資産運用会社レオス・キャピタルワークスの藤野英人社長がSNS(交流サイト)で私の記事を面白いと紹介してくれたりして、多くの反響をもらったんです。
糸井さん、前沢さんも
── コピーライターの糸井重里さんやZOZO創業者の前沢友作さんらも、ツイッターで岸田さんの記事を取り上げたりしていましたね。
岸田 noteの記事の閲覧数が100万回に上っただけでなく、昨年12月ごろには投げ銭(読者からの寄付金)で、ある程度の収入が得られるようになったので、思い切って独立することにしました。
糸井さんには1000文字程度のメールを送り、今は「ほぼ日」で亡くなった父についての連載を書いています。また、前沢さんにも会うことができ、現在は自叙伝の「前沢友作物語(仮題)」を執筆中です。
岸田さんの文章には「笑い」と「涙」がある。noteで大きな反響を呼んだ昨年9月30日の「弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった」は、岸田さんが高校生の時、お金を持たない弟がペットボトルのジュースを手に帰宅して、母が万引きに違いないと思い込んだ話。岸田さんは「歩いたその先に、障害のある人が生きやすい社会が、きっとある」とエールを送った後、最後は「知らんがな」と落として笑いを誘う。
── 障害を持つ家族について書くことについて、抵抗はなかったのですか。
岸田 最初は過去の話を面白おかしく書くことに後ろめたさはありませんでしたが、多くの人から反響が来るようになって、自分がうそを書いているんじゃないかと思い始めました。人の記憶はそれだけ曖昧で、読者から自分の家族も障害者だが楽しいことはないというメールが来たこともあります。ただ、今感じているのは、自分がつらかった過去を面白おかしく書くのは、過去を思い出してもつらくならないようにするため。誰かに評価されるのが目的なのではなく、自分を癒やすのに必要な作業であり、家族のためでもあるんです。
── 障害者に対する日本社会の見方や支援に変化は感じていますか。
岸田 SNSやメディアでの障害者の発信の場が増え、難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の人が国会議員に選出されるなど、すごいスピードで支援も受け入れも進んでいると思います。数年前は母がタクシーで頻繁に乗車拒否されましたが、最近は減りました。ただ、障害者に声をかけたら迷惑じゃないか、といった「悪気のない思い込み」はまだたくさんあり、この思い込みをなくすことが大切です。
── これからの仕事や人生をどう思い描いていますか。
岸田 今まであまりに変化が大きい人生を送ってきて、1年前は作家になるとさえ思っていませんでした。ずっと人気作家を続けるのは難しいだろうし、私を否定する人も増えるでしょう。大好きな家族も、私より先に死んでしまう可能性が高い。父が亡くなった時は家族みんなで乗り越えましたが、母や弟にこの先、何かあった時、私は耐えられるかどうか、自信がありません。
ただ、仕事の面では児童文学を書かないかというオファーを受けていますし、脚本にも興味があります。作家になったのなら、最初は芥川賞や直木賞を、と思った時もありましたが、キナリ杯をやってみて、賞はもらうより主催する方が楽しいと思いました。キナリ杯は来年もやります。文章を書くだけでなく、これからは話したり絵を描いたりするかもしれない。「岸田奈美」というコンテンツになりたいですね。
●プロフィール●
きしだ・なみ
1991年兵庫県生まれ。2014年3月関西学院大学人間福祉学部卒。在学中に障害者向けサービス会社に創業メンバーとして参加し、10年間広報部長を務めた後、今年3月に作家として独立。車椅子の母やダウン症の弟、亡くなった父のことなどをテーマにnoteでエッセーを執筆するほか、『小説現代』(講談社)、「ほぼ日刊イトイ新聞」などにも連載。